2017年5月連休東北紀行

毎年5月連休は宮城の妻の実家を訪ねる。
5月の連休、宮城は春真っ盛り。
山の雪がとけ、水が田を潤し、草花が咲き、木々も芽を出し始める。
しかし里では空洞化による荒廃の予感。
2017年5月、東北行の記録を記す。

会津郷土料理店メニュー

5月1日
午後、東京の町田を車で出発。
予報だと今年の連休は天気は恵まれてるとのこと。
とりあえず初日の宿泊地、会津若松に向けて車を走らせる。
18時、会津若松着。
車のドアをあけ外にでると冷たい空気に包まれる。
ナビに案内され会津若松駅前のホテルへ。
夜は市内の七日町にある郷土料理店「田季野」で食事。
会津の郷土料理を堪能。
会津若松の飲食街にある「田季野」

飲食街は城門の内側にある

会津は海から閉ざされた内陸なので、乾物を用いた料理が多い。
鰊、棒鱈など。

会津地方の名物「鰊の山椒漬」


5月2日
朝、いつもの時間に目が覚める。
6時、ホテルの近くにある会津若松駅まで散歩した。
ひろい駅前広場には車も人も見えない。
地方都市の空洞化を感じる。

平日、朝の6時だというのに駅前に人は全く見えない

午前は鶴ヶ城を散策。
幾重にも複雑に築かれた城壁、門、その堅牢なつくりに感心する。
栄華と壮絶な闘いを想像させるだけの存在感。
しかし物体だけが語る風景は閑散とした駅前と通ずるものがある。
「静止した時間」か。

会津城は幾重もの城壁に囲まれている


城壁から見た会津城。広さと大きさに感嘆。


城散策のあとは磐梯山麓の五色沼を経て福島インターより宮城県栗原市へ。


夕刻、妻の実家到着。
年老いた両親が迎えてくれる。

五色沼と磐梯山


廃線。町の商店街もシャッターが並んでいる。

5月3日
さあ、東北の休暇だ。
さっそく焼石岳へ。
この時期、入山ルートは「つぶ沼登山口」だけ。
6時半、登山口より登攀開始。目指すは中腹にある銀名水小屋。
一昨年に同じルートで登っているものの、雪の様子が変わるとルートも一変する。
今年は前回よりも残雪が多い。

石沼を見下ろす

先行者の踏み跡と赤テープを頼りに歩く。
気温が上がり雪が融け踏み跡が不明瞭になり、視界から赤テープも見えなくなり、不安がよぎる。
この広い雪原を見渡す限り私一人しかいない。
一昨年の記憶を頼りに方向を定めて歩くと、石沼を見下ろすポイントにでた。
ここまでくれば大丈夫。あとは山頂に方向を定めて歩けばいい。
やがて銀名水小屋に到着。
この時期、山頂を目指す人はこの小屋に泊まる人が多い。
午前10時だというのに、すでに3人グループが陣取っている。
彼らはこれから3日間、この山の中で過ごすとのこと。
私は山頂へ多少の未練を残し、下山開始。
誰も見えない雪原を踏み跡だけを頼りに歩く

下りは忠実に赤テープを頼りに歩く。
やがて登ってきたルートとは全く異なるルートを歩いていることに気づく。
広い雪原歩きは本当に危険であることを実感。
方向を見失うととんでもないことになる。
コンパス読み、またはGPSが必須技術だ。
今日は晴天だったからよかったものの、途中からモヤがかかったら一発アウトだった。
反省することしきり。
13時30分、登山口に戻る。
このあと山菜取りをして帰る。

5月4日
栗駒山麓の開拓地、耕栄を訪ねる。
第二次世界大戦後、満州からの引揚者たちがここで再起を期した。
記録によると電気が通じたのが昭和44年。
並々ならぬ苦労があったことと思う。
5月まで残る雪、寒冷との闘い。
さらに2008年の宮城内陸地震が追い討ちをかける。
今や殆どの開拓農家はここから撤退。
荒れた農地に雑草、雑木が茂っている。
廃校となった分校が寂しい。

廃校となった山の分校

カタクリが満開


5月5日
妻と遠野へ。
遠野の町と早池峰神社を散策。
遠野の冬は永い。
いろいろな信仰行事もこの永い冬の間に生まれたのだと思う。
殆どの行事が豊作への祈念、感謝に通じているように思う。
早池峰神社で行者にんにくを発見。
少しだけいただく。

早池峰神社参道。町の観光施設とは対照的に静か。なぜかここに観光客は見えない。
行者にんにく


5月6日
近くにある旧金成町の正ハリトリス正教会を訪ねる。
立派な聖堂だ。
なぜここにロシア正教会があるのか。
明治になってキリスト教は北方の函館からもロシア正教が入ってきたらしい。
この教会から自由民権運動の闘士や戦前の労働運動の闘士が生まれた。
友愛会など、労働運動にしてはやさしい名前も指導者の信仰心から生まれたものらしい。
歴史教科書には書かれていない史実だ。

正ハリストス正教。北方からのキリスト教布教があったことを知る。

5月7日
一路、神奈川の自宅へ車を走らす。
さよなら東北。

田植えを待つ






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